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「至為は為すなく、至言は言を去り、至射は射ることなし」 / 名人伝

 

中島敦さんの『名人伝』。弓の名人になった紀昌(きしょう)が、「なぜ弓を射ないのか」と聞かれて答える。

 

 

至為は為すなく、至言は言を去り、至射は射ることなしと。


訳:もっともすぐれた行為は、その行為をなさないことであり、もっともすぐれた言葉は、言葉を発しないこと、つまり沈黙にある。そのようにもっともすぐれた射術は射ることを超越することにある。

 

李陵・山月記―弟子、名人伝、狐憑 

 

 

つらくても求める。苦しくても進む。道を歩むことができるのは「こだわり」があるから。「こだわり」のタネ火は「自我の欲求」。

 

「自己顕示」「自己承認」「自己存在証明」

 

「己」の変化を求めるのは、「自分」が不明瞭だから。「心」が不安定だから。逆に、自己が明瞭で、心が満たされると、変わる必要が無くなる。成長、向上、変化を求めなくなる。


道とは「こだわり」から入って「こだわり」から解放されるための道筋。こだわりという苦しみから自我を解放する手段という話。たとえば武道。強くなりたいと思って武術を学ぶもの。でも、強くなるためには「我欲」が邪魔になることに気づかされる。


なぜなら、敵となる相手、他者の存在を受け入れないと最高の技にならないから。相手を無視して動いても、最もその場に適した動作にはならない。「間(拍子)」と「間(間合い)」の適合、敵との調和によって、無駄のない自然な武力が発揮される。

 

でも、強さにこだわる心が邪魔になる。相手の存在を否定する。自分勝手で相手を無視した動きになる。

 

「1番になって自分の強さを確認したい」

「他者と比較して優位になりたい」

「できるところを見せて評価されたい」

 

自己満足を求める余計な心があると、相手を受け入れることができない。例えるなら、人の話を聞かずに、一方的な自慢話だけをつづける会話泥棒のような感じでしょうか。


武術の達人、合気道の名人である塩田剛三さん。武の極意を「自分を殺しに来た相手と友達になる」と話されていたそうですね。これは、勝つ負けるといった「自我」から解放されている状態を意味した言葉なのかも。


自分を満たすための弓術。自分を見つけることができた紀昌には、弓術が必要のないものになっている。他人の評価を求めていないので、人に言われて見せる意欲もない。射る必要がないので、弓矢の道具や技術を覚えている意味もない。

 

やらないのは、できてもできなくても「私は私」と自覚しているから。自分が何者かを悟って、心が安定している状態になっているからなのだと感じます。

 

 

李陵・山月記―弟子、名人伝、狐憑 (愛と青春の名作集)

作者: 中島敦
挿絵:カワセミ企画
表紙デザイン:滝村訓子

 

 

もくじ

 

李陵
弟子
山月記
名人伝
狐憑


補注
解説 氷上英廣
 人と文学
 作品の解説と鑑賞
「李陵・山月記」をどう読むか 高橋俊三
年譜

 

李陵・山月記―弟子、名人伝、狐憑 (愛と青春の名作集)